院長:重野浩志
- 資格
- 血液循環療法士
こんな家庭で生まれました!
「お腹の中の子は おろしてきなさい!」
いきなり過激なフレーズから始まってみなさんをびっくりさせてしまったかもしれませんが、これは数十年前、私を身ごもった母に祖母が言い放った言葉です。
何となくお察しだと思いますが、そう、私は、嫁(母)VS 姑(祖母)の戦いの中に生まれました。
生まれた場所は母と祖母の戦場だったわけです。戦いと言っても祖母の一方的な攻撃でしたが。(笑)
私には同じ戦禍に育った一つ上の兄がおり、共働きの父母が仕事に行っている昼間は、祖母が私たち幼い兄弟の面倒をみるという約束になっていたそうです。しかし攻撃の手を緩めない祖母は、ある日私たち兄弟をおいて出かけて行ってしまったという悲しいエピソードもあります。
自分の身に起こったことながら全く覚えてないので、まるで我が子に対して思うように「何か危険な物を飲み込んだりしてないかな?」「お昼ご飯はどうしたんだろう?」「さみしくなって泣いたんじゃないかな?」なんて思ったりします。私も大人になり子育てを経験して、その時の母の胸の痛みが想像できるようになりました。しかしながら祖母にしても、全く私たち兄弟がかわいくないというわけでもなかっただろうと思います。きっとできるだけ配慮をして出かけてくれていたでしょう。ただそれよりも嫁が憎いというような気持ちが上回ったのではないかと思います。こうやって戦いはいつまでも収束することはありませんでした。
一つ上の兄は体も大きく腕力もあり私とは正反対でした。私は食が細いのもあって体も小さく、兄とは年子とは思えないほどの身長差でした。心配した母は仕事のない日には常に小さなおにぎりを持ち歩き、いつでも私の口に入れられるようにしていたそうです。正反対の私たち兄弟はほとんどの時間を一緒に過ごしていました。大きくて活発な兄といると、小さくておとなしい私でさえたくましく強くなったかのような気になりました。
しかし、当然、私は私のままでしかありません。特に周りの子どもたちから見ると、いつも一緒にいる兄と対照的な私が、より小さくひ弱にうつったのではと思います。それが原因かははっきり解りませんが、幼稚園では背の高い同級生によく泣かされていたと母から聞いています。嫌な記憶だからか私自身には全くそんな覚えはないのですが。
当時のことではっきり覚えているのは、確かに幼稚園に行くのがすごく嫌だったということです。嫌で嫌でよく泣いていた記憶があります。やっぱりそれは、いじめられていたということとも関係があるのかもしれません。
それにその頃、よく怖い夢を見て泣いていた記憶もあります。夢の中で私は何かに追いかけられたり、戦争のただなかにいたりしました。今から思うと、我ながら見るべくして見るような夢を見ていたなと思います。さらにお漏らしもしょっちゅうしていていました。小学生になっても続いていたと思います。実はこれも起こるべくして起こっていたんじゃないかなというのが今ならわかります。
そもそも私は嫁VS姑の戦場で生まれ、幼いながらに日々ピリピリした空気をまざまざと感じていました。そうやって不安な気持ちを抱えながら幼い日を生きていたわけです。時には幼心に怖くて悲しい大人の喧嘩も目撃してしまっていました。その上幼稚園でも泣かされていたようで・・・。
整体師になって初めて、この頃の自分の身に起きたことについても解釈できるようになりました。特に幼い日の家庭環境による影響は、その後大人になり表面上はわからなくなっても、私を苦しめ続ける原因の一つになっていたと自覚できるようになりました。
※幼少期の不調・・・お漏らし、よく怖い夢を見る
小学生時代の私
小学生時代の自慢と言えば一輪車に乗れることくらいだったかなと。これと決めたことは徹底的にやるタイプで、熱心に練習した結果でした。
お漏らしはやはり低学年あたりまでしていたんじゃないかと思います。
勉強は苦手というより、授業中の発表や本読みが苦手でした。いわゆる赤面症で、すぐに顔が赤くなるのも小学生の私にはプレッシャーだったように思います。とにかく子どもながらに授業に強いストレスを感じていました。
また、身近な仲間内でいじめがありました。友達が友達をいじめたのです。仲のいい友達どうしの間で起きたことに私は大変なショックを受けたものの、それに対して私は何となく何も言わなかったのです。いや、もっと正確に言うと言えなかったのです。「ダメだ」とも言えないまま、ただただ流されてしまいました。
この事実は、流されるままにどこかに流れ去っては行きませんでした。大切な友達なのに何もできない罪悪感。心の中では本当に申し訳なくて仕方がありませんでした。さすがにそんな気持ちに対してまで無関心を装うことなどできず、私はやがて大人になってもその当時の自分のとった態度に苦しみ続けることになりました。
そんな小学生時代の私は、しょっちゅう風邪をひいていました。しかも風邪をひくと必ずと言っていいほど40度近い高熱が出るのです。相変わらず細く頼りない体だった私にはそれは大変な負担で、その都度ぐったりしていました。こんな私に対しては親も、祖父母も、先生も、友達も、自分自身でさえ、ただ「体が弱い」という認識しかなかっただろうと思います。整体師としてそれを振り返ると、当時の私を誰一人理解していなかったのだろうということが分かります。
私はとにかく学校が嫌でした。幼稚園も嫌でしたがやっぱり小学校も嫌だったのです。たくさんのクラスメイトとともに受ける授業には強いプレッシャーや強いストレスを感じるし、仲間内で起きたいじめには何もできないという大きな罪悪感を背負っていました。私にとって学校は大変辛い場所だったわけです。しかし、嫌でも行くしかない。今でこそ学校に行きたくない子どもたちにも社会は様々な選択肢を提示できるようになりましたが、当時はほぼ選択肢がありませんでした。それに、依然、家庭は嫁VS姑の戦いが続く戦場で、私には心から安らげる場所がどこにもなかったわけです。
整体師としてこういった自身に起きた状況を客観的に読み解くと、「果たして高熱は風邪だけのせいであったのか?」という風な見方ができます。それは辛い気持ちが体の不調として現れることがあるのを知っているからです。体も確かに弱かったのかもしれませんが、ではなぜ体が弱かったのか?それは心の不調と連動することが多いのを知っています。こうやって心と体は相互につながり連動しているということを、私は整体師として理論的に理解しているばかりではなく、私自身の身に起こり長い間苦しめられた経験から感覚としても理解しているのです。そして、それは現在、私の整体院に助けを求めて来られる多くの方へ活かされています。
※小学校時代の不調・・・お漏らし、よく怖い夢を見る、うおのめ(両足で10個程)、赤面症、こむら返り(よく起こる)、時々激しい頭痛
中学生時代の私
これまでの私は、家庭や学校などの環境によって、小さな体に不安な気持ちやストレスを抱えることになり、度々体調を崩していたと考えられるわけですが、それだけではなく、私自身、繊細でストレスを感じやすいという傾向も確かにあったように思います。
そんな病弱でひ弱な印象の私でしたが、なんと中学生になると幾分か体もたくましくなりスポーツが得意になりました。だからと言って部活を頑張ったというわけでもありません。兄がバスケットボール部に入っていたのもあって私も入部しましたが、やはりストレスが多くて楽しめず、熱中できませんでした。
とにかく、土日などの休みの日まで練習や試合に行くのがものすごく苦痛だったのですが、こんなことを言うと「何を甘えたことを言ってるんだ!」と怒られるのがおちでした。実は部活あり方については現在では大幅に見直されており、子どもたちも先生も休めるようになってきています。しかし当時は休日も休まず行くべきだという空気が当たり前にあったのです。これは特に中高年の方には覚えがあるでしょう。私たちの時代は根性!根性!と言われることが多く、休みを取らないということすら根性と混同されていたように思います。所属している限りは行くしかありませんでした。また、それだけじゃなく、どうにもこうにもそりが合わず苦手な部員もいて、部活を楽しむ余地がほとんどなかったのです。ただただ部活に行っていたというだけで、私にはマイナスでしかありませんでした。
そもそもスポーツが嫌いと言うわけではなく、むしろ得意だったので体育祭の時には高跳びで1位になったこともあります。正直もっともっとスポーツを楽しみたかったなと思います。
当時は思春期ということもあったのか、私自身、嫌なことばかりに意識が向いていたような気もします。やりたくないことでもやるしかないと無理ばかりしていたので相変わらず体調を崩すことも多かったです。きっと多くの人と同じように、極端に当たり前から外れることを恐れていたんだろうなと思います。でも、嫌なことを無理にすることはないし、嫌な人と付き合うこともないわけです。それこそが当たり前なのです。今なら整体師としても自信を持ってそう言えるので、叶うことなら中学生時代の自分にそう言って励ましたいような気になります。
部活では散々でしたが、それ以外ではありがたいことに仲のいい友達が数人いて、いつもお互いの家を行き来したり、一緒にペットショップに金魚を買いに行ったりして、好きなことをしながら楽しんでいました。こういった仲間との楽しい時間が心の支えにもなりました。この時の友達は今でも大切な友達です。
※中学生時代の不調・・・ウオノメ、不整脈、動悸、高熱がよく出る、立ちくらみ、湿疹・痙攣・頭の中で血管が切れたような痛みと音が数回、右手親指脱臼、酷い花粉症、肩こり、頭痛
高校生時代の私
高校生になると、義務教育も終わり少し自由度も増したからか、中学生の頃と比べてのびのび過ごせるようになりました。家庭での嫁VS姑の争いも、成長したからか以前よりも客観的に捉えられるようになり、表面上ではほとんど影響されることはなくなりました。
当時の私には特に夢や目標があるわけでもなかったのですが、ただ何となく過ごす毎日も、私には大変かけがえのない高校時代の日々として思い出に残っています。
中学から引き続きバスケットボール部に所属していましたが、やはり高校でも真剣に打ち込むことはないまま、三年間在籍していました。
楽しくは過ごしていたものの周りの目が気になっていたので、特に出すぎたり、逆に出なさすぎたりせず、ごく普通で当たり障りのないような過ごし方をしていたように思います。
よく生活の仕方についても、「普通を維持することがどれだけ大変か」と言う風に言われることがありますが、生き方についても普通を維持することは実は大変骨が折れるのです。とても曖昧な言葉として知られる「普通」を意識する時、多くの人はそのために強く周りを意識します。私も例にもれずそうでした。神経質に周囲の様子をうかがいながら、頑張って普通でいたのです。そのおかげもあってか波風を立てるような大きなトラブルもなく、楽しい高校生活が送れたのも事実ですが、人の目を気にし、周りを気にしという当時の生き方は、単純に疲れますしストレスでもありました。
そのうちに、いよいよ、高校三年生の進路を決める段階になりましたが、この時期にあってもやはり、進みたい道も、やりたい仕事も特にありませんでした。どうしたものかと思いましたが、一つ上の兄が大学に進んだので、ここでもまた何となくですが私も大学に行きたくなりました。もちろんそんなぼんやりした動機では、勉強に集中できるはずもありません。とうとう高校三年生の夏になり、美大を目指すことに決めました。
※高校生時代の不調・・・不整脈、激しい動悸、立ちくらみ、上半身全体からヘルペスのような膿が出る(数ヶ月続く)、酷い花粉症、耳鳴り
大学生時代の私
何となく目指した美大でしたが、いざ進学するとさらに毎日が楽しくなりました。大学では特にうるさい規則に縛られるようなことはほとんどなくなりますし、美大なだけあって個性的な学生も多く、多様性がある環境ではそれほど普通を意識しなくてもすんだようにも思います。やっと私の気質にも合う自由な環境に身を置くことができました。気の合う友人たちにも恵まれ、本分の勉強以外にもそういった付き合いにも奔走し、この頃は家にも帰ったり帰らなかったりというような生活でした。
この頃のストレスは、当時付き合っていた彼女のことでした。彼女が大変私のことを思っていてくれていたのは十分に理解していたのですが、ちょっと度を越えた強烈なやきもち焼きでもあったのです。学生なので授業もありますし、友達との付き合いもあります。家族と過ごすことも、時には一人でのんびり過ごしたい時だってあります。様々な楽しい時間の中で、もちろん彼女と過ごす時間は中でも特に幸せなひと時であるはずでした。しかし、そのうち彼女に対して極度に気を使わないといけなくなり、だんだんストレスになってしまいました。
私も当時まだまだ未熟で、自分の気持ちを素直に彼女に伝えられませんでした。言葉が足らずさらに彼女を不安にさせてしまったのかもしれないと思います。今振り返ると我ながら情けないです。
※大学生時代の不調・・・不整脈、激しい動悸、立ちくらみ、よく風邪をひく、イライラ、激しい花粉症、耳鳴り、喉の詰まりや違和感、排便排尿時の校門付近の激痛、肝臓付近の激痛、メイボ(両目で9個程度同時に)
社会人・・・人助けへの第一歩から挫折
大学を卒業した後は老人ホームに勤務していました。
人助けと言うと格好がいいですが、私は結局人に興味がありました。
自分も含め色んな人がいますが、誰一人同じような人がいないわけです。
人のことを理解したいと思っても、まず自分のことすらよくわからない。
そういった欲求やジレンマがあり、人に直接携わる仕事に惹かれたような気がします。
覚えることや勉強になることも多く、日々感じるやりがいの中で夢中で働いていたのですが、勤務して1年ほど経った頃、お年寄りを抱きかかえようとして腰を痛めてしまいました。介護の仕事は体力仕事も多く、腰痛は職業病でもあります。
多くの介護者が腰痛と付き合いながら仕事をしているものの、中には悪化してしまい退職を余儀なくされてしまう場合もあります。
私は直ちに整形外科を受診し、1週間に3、4回通い半年以上続けていました。
しかし、腰痛がおさまることはないままで、痛みに耐えながら仕事を続ける他ありませんでした。
そうやってどんどん痛みが深刻になっていき、そのうちしだいに足先まで痛みが広がり、遂にはしびれまでが出るようになったのです。
さらに長時間の歩行で足に力が入らなくなるようなこともあり、どんどん仕事や生活に支障が出るようになっていきました。
これではいけないと思って、自分なりに腰痛ストレッチや専門書にあった腰痛体操もしましたが改善されず、人助けの仕事を続けたかったのですが、ハードな業務に腰が耐え切れなくなり、遂に私も退職を余儀なくされてしまいました。
※社会人になってからの不調・・・ぎっくり腰、坐骨神経痛、自律神経失調症、パニック、不整脈、激しい動悸、立ちくらみ、よく風邪をひく、イライラ、激しい花粉症、耳鳴り、喉の詰まりや違和感、排便排尿時の校門付近の激痛、肝臓付近の激痛など
民間療法を体験する
人助けへの道の第一歩で腰痛により挫折したわけですが、まさか私を窮地に陥れた腰痛がその後の人生を切り開くきっかけになるとは、当時思いもしませんでした。
希望も職も失い、私に残っていたのは重度の腰痛くらいでした。
とにかくこれを直さなければ、職探しもまともにできないと思いました。
しかし、半年以上病院に通い治らなかった事実があり、私が打てる手が他に見つからずにいました。
そんな時にたまたま知人が整体院を紹介してくれて、生まれて初めていわゆる民間療法を体験することになったのです。
正直当時の私は病院以外の施術に懐疑的だったのですが、だからと言って病院での施術にも疑問が残っていました。
整体院の先生は・・・
「大丈夫大丈夫、腰と足の血行が悪くなっているだけだから、血行を良くしてあげると治るよ」
「人間の体は血液がしっかり流れれば治るよ」
とおっしゃいました。
私を長い間苦しめ、希望も職も何もかもを失わせた重い腰痛に対して、拍子抜けするほど単純で明快なこの言葉は、私にとって大変な衝撃で、その後も頭から離れなくなります。
すっかり懐疑的な気持ちを忘れ、施術への興味でいっぱいになりました。
その後1週間で4、5回通い、なんと驚くべきことに、本当に完全に痛みが消えたのです。
これまでの病院通いのことや、痛みに耐え続け働き続けた日々を思うと、本当にショックなくらいに見事に治りました。
しかも、整体院では病院であれだけ処方された湿布や薬も使わず、たいそうな器具も何も使われませんでした。
ちょっとカルチャーショックにも近いような感じで、こんな世界があるのかと思い整体院の先生には感動、感激、感謝の気持ちでいっぱいでした。
整体師の道へ
整体院での衝撃はいよいよ私の人生を動かすことになります。
私はついに整体師の道に進むことを決意しました。
「いざ進め!」と士気高く進もうとするわけですが、簡単にその一歩は踏み出せません。
実は整体には様々な考えがあるのです。
私は「どの道を選択しようか?」という問題にすぐに直面しました。
手あたりしだいに様々な整体療法の本を読みましたが、その中でも、やはり、私の腰を治してくださった先生の言葉が私を導き、その言葉に一番近い血液循環療法を選択したのです。
大阪の豊中にある血液循環療法専門学校に入学し、たくさんの素晴らしい先生から学びました。また、整体施術を通じ、他の療法にも出会いました。そこで確信したことは、やはりあの腰痛を治してくださった先生の言葉、「血液さえしっかり流れれば体は治る」ということでした。
人生が劇的に変わる
この頃が私の最大の人生の転機ではなかったかなと思います。
私を挫折させた腰痛ですが、腰痛をきっかけに、病院でも治せない病気があるということと、病院でも治せなかった病気を治せる民間療法があるということを身をもって知りました。
さらに、その経験から整体師の道を志し、学ぶことで、整体の可能性を知ることになりました。
私はここで、新たな可能性を見出すことになります。
もしかしたら、これまでの私の人生で悩まされてきた数々の体の不調を全て治すことができるんじゃないかと思い至ったのです。
私は長い間様々な不調に悩まされ続けました。
しかもその原因もよくわからず、病院などで対症療法を続けたり、あきらめて放置したりしてきました。
ほとんどの症状は治ることがなく、良くなったり悪くなったりを繰り返し、「病気と付き合う」と言えるほどうまくコントロールできるものでもありませんでした。
「なぜ私はいつも辛いのか?」「どうしたらこの辛さから逃れられるのか?」それは私のテーマとしてあり、そういった切羽詰まった気持ちが、人助けの道への興味につながったのかもしれません。
人助けは同時に自分助けにもなるからです。
あらゆる可能性を探るべく猛勉強しました。
遠くにはまばゆい希望の光が確かに見えており、そこに向かっていかに大海原を攻略するかというような作業をがむしゃらに行いました。たくさんの書物を読みながら、格好の実験台である自分の心身に様々なことを試していきました。
その結果、大変時間はかかりましたが、とうとう私は私自身に起こっていた全ての症状を自分で治しきることに成功し、そのいわゆるメソッドを独自に構築することができました。このページのそれぞれの章の下の方に、赤い字でその時期私の体に起きていた不調を書き出していますが、つまり、その全てに対しそれぞれ適応できる方法を体得したのです。
血液循環療法専門学校卒業後・・・
整体学校を卒業後、私は無謀にもすぐに滋賀県の野洲市にある実家の一部屋を利用し、実際にお困りのお客様に施術をし始めました。
その中でこれまで培ったことを存分に活かしながら、苦しむ一人一人の方々に向き合い、笑顔を取り戻してきました。
そういった一人一人の方々の紹介などで少しずつお客様も増えていき、最近では多くの方に利用していただけるようになりました。
たくさんのお客様が笑顔になっていかれるのを見て、私は整体師として大変ありがたく日々満足を覚えていますが、しかし、私の学びはまだまだとどまることはありません。
常々、最新の技術の収集や、その会得に努めたり、多数のセミナーへの参加などもコンスタントに行っています。私の整体院にはやはり病院でも原因がわからず、効果を上げなかったような非常に難しい症状で苦しむ方が、最後の砦として来院されることも多いのです。
私はそういった方々をがっかりさせたくない。ただ純粋にそんな思いが私を突き動かしています。
お電話ありがとうございます、
重野整体院でございます。